幕末から明治初期の歴史を振り返る

徳川慶喜がいた二条城

明治時代になり、政治、郵便制度、鉄道、貨幣、暦法、身分、財閥など現在の私達の生活を支えている基盤が整理された。

この記事では、260年間続いた徳川幕府がどのように滅んだのか、明治時代に入ってどのような出来事があったのか、詳しく整理して行きたいと思う。

明治初期の出来事

  • 1869年、「江戸」が改称され「東京」になる。
  • 1871年、廃藩置県により、270あった「藩」が廃止され「県」が配置される。新政府が唯一の政治権力を握る。
  • 1871年、四民平等により、華族、士族、平民の間で結婚、就職が自由にできるようになる。
  • 1871年、殖産興業(欧米制度や技術の移転)の一環として前島密が中心となり、各地に郵便局やポストが作られ郵便制度ができる。
  • 1871年、新貨条例により、円銭厘が貨幣の単位となる。銀行が創設される。
  • 1872年、大隈重信がイギリスの資本や技術を借りて鉄道を開通させる。
  • 1872年、群馬県に富岡製糸場ができる。フランス人女工が日本人女工に指導を行う。
  • 暦法を太陽暦に改め、1日24時間、日曜日を休みにした。
  • 三井や三菱などが政府の後押しを受けて利益を上げた。政府の保護を受けて利益を上げた商人は政商と呼ばれる。

慶喜の無条件克服

第15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を還し(大政奉還)、無抵抗で降伏した。大政奉還を提案したのは坂本龍馬であった。龍馬は列強諸国に対峙するためにも国内の不要な戦いは避け平和を優先したのだ。慶喜は権力を手放す気などなかったが、天皇の王政復古の大号令により幕府が廃止され新政府と三職が樹立した。その夜、天皇と三職の会議が開催され徳川家の処遇について議論された。薩摩藩大久保利通などの倒幕派が慶喜の大臣辞任と領土の返却(辞官納地)を提案し、慶喜は新政府の盟主になれなくなった。

薩摩藩と長州藩が倒幕を開始するまで

薩摩藩が幕末に活躍できたのは藩政改革に成功し政治力や経済力をつけたからである。薩摩藩は琉球王国を支配し島民に砂糖栽培を強要した。サトウキビは南国でしか栽培できなかったため、砂糖は貴重で利益が出たのである。1851年に藩主になった島津斉彬はイギリスと貿易を行い大量の武器を輸入した。朝廷と幕府が共に政治をする公武合体を支援していた。

長州藩ではペリーの黒船来航を目の当たりにした吉田松陰尊王攘夷を主張、松陰は安政の大獄で死去するがその同士や弟子が実権を握る。攘夷主義者である孝明天皇のいる朝廷に勢力を伸ばした。

薩摩と長州が相対するのは8月18日の政変である。京都や江戸で外国人を殺害し幕府を倒そうとしていた尊攘派の長州藩士に対して、会津藩(京都守護職)・薩摩藩は天皇の同意を得て長州藩士を朝廷から追放した。

朝廷は長州藩を敵とみなし第一次長州征討で征討軍を送ったが、長州藩が謝罪したので領地の削減にとどまった。

間も無くして長州藩では高杉晋作らが保守派政権を倒して革新派政権を作る。革新派政権は幕府の命令を聞かなかったため幕府は第二次長州征討を行うが、この時にすでに薩長同盟が結ばれており薩摩藩は出兵を拒否した。第二次長州征討では、長州藩が征討軍を倒し勝利する。

14代将軍家茂が死去し、幕府の理解者でもあった孝明天皇が死去する。家茂の後に15代将軍になった慶喜は幕府の改革を行い軍事力を強化する。海外から大砲や軍艦を仕入れ1万人以上の兵隊を用意した。

幕府の軍制改革を脅威とみなした薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛は長州藩と組んで倒幕を開始した。