真田幸村、家康をもっとも追いつめた男

「真田幸村 家康をもっとも追いつめた男」、河合敦、小学館新書、2015年12月発行。

付箋数:5

満足度:★★★

「真田幸村は何をした人だろうか?」

この問いに対して私は全く知らなかったが、この本を読んで見てクリアになった。

関ヶ原の戦いと真田昌幸

真田氏を知るためにはまず幸村の父、昌幸(まさゆき)の話から始めるべきだろう。

関ヶ原合戦の時、昌幸は息子の幸村と共に上田城にいた。

石田三成率いる西軍と家康率いる東軍の戦いだ。

家康はこの時、息子の徳川秀忠が、関ヶ原の戦いで大いに活躍した

武将として歴史に名を残すよう計画をしていた。

秀忠は徳川家の主力3万8千の軍を率いて江戸から中山道を通って

関ヶ原の戦いに臨むつもりだった。

しかし、彼は途中の上田城で真田昌幸に戦いを挑んだ。

真田の兵力はたったの3千であり、秀忠は楽勝だと踏んだのだ。

しかし昌幸の見事な戦略により、徳川家は結局上田城を攻略することが

できなかった。

秀忠は上田城に8日間も滞在し、結局関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

そのため家康は秀忠を激しく叱責したという。

この大失態は徳川家の家督問題にも影響し危うく秀忠は2代目の徳川家将軍に

なり損ねるところだったが、家康が反対を押し切り秀忠は家康の後継者となる。

昌幸の死

真田軍は徳川軍を足止めすることに成功したが、関ヶ原の戦いでは

西軍の石田三成が敗北したため負け戦となってしまった。

昌幸は家康の命令により幸村と共に九度山に幽閉されることになった。

昌幸はこの地で11年間も幽閉されて死んだ。

残念なことに昌幸の死後も、幸村は解放されることなく幽閉され続けた。

大坂の陣と幸村

九度山で生涯を閉じるかと思われた幸村であったが、思わぬ転機が

訪れる。

秀吉と家康の関係が悪化し、大坂の陣が起こったのである。

幸村は40代後半になっていた。この時代では初老である。

幸村は迷わず秀吉の味方になり大阪城へ向かった。

1614年の大坂冬の陣では、大坂城に真田丸を構築、家康軍を追い払い活躍した。

この活躍により真田家は一躍有名になり、家康も信濃国1国を与えるから

味方になってほしいと懇願した。

しかし、幸村は自分の命がもう長くないことが分かっており、領土よりも

豊臣家と共に戦う道を選んだ。

1615年5月7日、大坂夏の陣。

茶臼山に陣を構えた幸村と天王寺にやってきた家康の全面対決となる。

家康にとって、茶臼山から真っ赤な鎧を着て攻めてきた幸村は火の玉のように

思えたかもしれない。

家康の旗本は真田を見て次々と逃亡し、家康は「俺は死ぬ」と叫び切腹

しようとした。

しかし、3度目の攻撃で真田軍は力尽き、幸村は安居神社に腰を下ろし敵兵に

殺されたのだった。

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