岩崎弥太郎と三菱四代

岩崎弥太郎と三菱四代、河合敦、幻冬舎新書、2010年1月発行。

土佐藩出身の岩崎弥太郎。地下浪人(土佐藩士の身分を失った武士)である岩崎家に弥太郎だったが、誰よりも勉強し最終的には土佐藩の重役に上り詰める。長崎の土佐商会の主任に命じられ外国商人との商売をこなす。土佐藩出身の坂本龍馬とも仲が良く、土佐商会が海援隊の面倒を見ていた。

戊辰戦争後、明治維新を推進していた薩長土肥(さっちょうどひ)の4藩の有為な人材は新政府の役職につく。参議内閣には藩から一人ずつ参議が指名された(長州:木戸孝允、薩摩:西郷隆盛、肥前:大隈重信、土佐:板垣退助)。

鳥羽・伏見の戦いをwikipediaで調べてみた。

鳥羽・伏見の戦いとは、1868年1月3日から6日まで、長州や薩摩の官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦いの事である。(wikipedia)

ちなみに「勝てば官軍」という言葉の由来はこの戊辰戦争のようだ。

「戊辰戦争(慶応4年/明治元年)」は、明治新政府軍と旧徳川幕府軍との間で戦われた日本国内最大にして最後の内戦です。

旧徳川幕府軍はもともと日本を統治しており、天皇からも認められる「官軍」でした。しかし戊辰戦争では、天皇は明治新政府軍を「官軍」と認めることになります。天皇は軍隊を持っておらず、戦争に勝ち統治権を握った側を支持することになるため、「勝てば官軍」という言葉が生まれたといわれています。

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廃藩置県によって土佐藩が廃止された後に、弥太郎は明治政府の役人として働きたいと願うが叶わなかった。明治維新後、弥太郎は土佐商会の名称を三川商会、のちに三菱商会へと改め事業に専念することにした。台湾出兵の時に大隈重信から、海運事業を依頼され快諾。政府の信頼を得た三菱商会は大久保利通の推薦もあり、国の海運事業を任されることになった。

弥太郎は福沢諭吉とも親交が深く多くの慶應義塾の卒業生を三菱に採用した。

明治14年の政変で、大隈は参議職を罷免され、薩長専制政治が開始、伊藤博文(長州藩士)が中心人物となる。

明治15年、大隈重信を党首として立憲改進党が設立される。薩長藩閥政府は、三菱商会が立憲改進党に資金を提供していたとして、三菱を抑制しようとする。政府は同年、海運事業を営む共同運輸会社を設立し三菱を潰そうとした。

明治18年2月7日。胃癌のため弥太郎死去。共同運輸との決着がつかぬままだった。最期は病気のため東京の別邸六義園に篭っていた。

三菱商会は、弟の弥之助が継ぐことになった。弥之助は三菱の海運事業を手放す。政府主導で共同運輸との合弁会社、日本郵船が設立された。

三菱商会から海運事業がなくなったが、弥之助は三菱社を新たに設立。彼の手腕により、鉱山や炭鉱事業で大幅な利益を得る。さらに、政府から赤字だった長崎造船所を引き取り、再建&黒字化させた。第1次世界大戦の特需もあり、造船業は莫大な利益を三菱にもたらしたと言う。

弥之助は丸の内の土地を政府から購入しビジネス街に仕立て上げた。現在でも、丸の内は三菱地所の持ち物であり三菱重工、三菱商事、三菱東京UFJ銀行などの本社が並ぶ。

明治41年3月、弥之助はがんのため死去。58歳の若さであった。