日本史は逆から学べ

日本史は逆から学べ~近現代から原始・古代まで「どうしてそうなった?」でさかのぼる~ (光文社知恵の森文庫) Kindle版

近代から古代へ遡り、なぜそれが起きたの?なぜ?と掘り下げていく。

面白いと思ったのをいくつか紹介してみようと思う。

比較的に近代(江戸時代〜昭和)の方が言葉が分かるので理解が進みやすいと感じた。

事前知識が無いと戦国時代以前はちょっと難しいと思う。

戦後日本が経済発展したのはなぜ?

第二次世界大戦で日本はアメリカに敗北する。真珠湾攻撃を仕掛けた日本は、ミッドウェー海戦で惨敗。1945年7月、アメリカ、イギリス、中国によるポツダム宣言を受け入れなかったことにより、長崎、広島に原爆を落とされ、8月に無条件克服することになった。敗戦後、GHQにより日本の財閥は解体されたかと思いきや、途中で財閥解体は中断され日本がアメリカから経済支援を受けた。

これはなぜだろうか。実は、アメリカをはじめとする自由主義国と、中国やソ連をはじめとする社会主義国との間で、第二次世界大戦後に冷戦が行われていたことが関係する。東アジアの社会主義国化を恐れたアメリカは日本を防壁とすることにした。日本の経済を安定させるために、経済安定9原則を発表。ドッジを日本に派遣し、1ドル=三百六十円にレートを固定、輸出を活性化させた(ドッジライン)。

1950年、朝鮮戦争が起こり特需景気が発生。アメリカが日本に大量に物資を発注したため、日本経済は上向きになる。戦争は3年間続いた。1960年、池田勇人が首相が国民所得倍増計画を発表。岩戸景気やいざなぎ景気もあり、1955年〜1973年の20年近くは経済成長率10%を超えた。

なぜ薩長は倒幕運動を成功させ、幕府を倒すことができたのか。

これには2つの理由があります。1つはペリー来航後、幕府が開国してしまったから。もう1つは幕府が幕政改革に失敗した一方で、薩長が藩政改革を成功させたのが原因だと言われています。

江戸時代は尊王攘夷運動、つまり「天皇万歳、外国人を排除しよう」という考え方が主流でした。孝明天皇は、ペリーによる強引な開国を拒否する考えでした。しかし、幕府のトップであった阿部正弘は開国し日米和親条約を締結。その後、幕府の大老井伊直弼はアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。尊王攘夷派の大名や天皇の意向を無視して開国したことで、幕府は反感を買ったのです。この隙をついて、薩摩は長州と薩長同盟を結び孝明天皇を奉じて(立てて)、倒幕を成功させたのでした。つまり、尊王攘夷の考え方を汲んだ薩長が大名から支持され、倒幕に至ったと考えられます。

薩長土肥の藩政改革を見て行きましょう。

  • 薩摩藩(鹿児島)の島津斉彬は西洋の技術を取り込み、溶鉱炉や造船所、ガラス製造所を作った。
  • 長州藩(山口)は村田清風が紙や蝋を専売制にした。大阪に運ばれた商品を委託販売することで莫大な利益を得た。
  • 土佐藩(高知)は吉田東洋や後藤象二郎が長崎商会を通じて多数の艦船や武器を手に入れた。ちなみに長崎商会で主任として外国人との交易において活躍していたのが後に三菱を創設する岩崎弥太郎である。
  • 肥前藩(佐賀)は鍋島直正が大砲製造所を作りイギリスのアームストロング砲を国産化した。ちなみにこの大砲が戊辰戦争で大活躍し、肥前藩は新政府で力を持つことができた。均田制度を作り、地主から小作地を取り上げて小作人に分け与えたことで、本百姓が増えた。

このように薩長土肥は幕政改革に成功し、武器や経済力を身につけ雄藩として幕末に備えることになった。

なぜ天保の改革は失敗したのか?

老中水野忠邦が進めた天保の改革は失敗に終わる。

  • 贅沢を禁止するための倹約令を出し、歌舞伎や落語、浄瑠璃(語り物芸能)を制限し、出版物の統制を行なった。
  • 株仲間の解散を命じる。しかし、株仲間を解散しても物価は下がらず失敗に終わる。
  • 江戸や大阪の収益の高い土地を幕府の領地にする上知令(アゲチレイ)を出した。しかし、藩の反発をくらい水野忠邦が失脚する原因となる。

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