仕事や育児をしていると自分は不自由だと感じることがある。
何せ仕事や会社に1日8時間も自分の時間を捧げているのだ。
子育てだって楽ではない。
いっそ全てを投げ出して自由になりたいこともある。
しかし、果たして自由の状態は本当に幸せなのだろうか。
最近読んだ本「ぼくたちは習慣で、できている」(佐々木典士著)で書かれていたことが印象的だったので紹介したい。
不自由から逃れた先には、自由の苦しみが待っていた。ガンジーはこう言った。「怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。幸せになるためには何かをしていなくてはならない」。
自由の苦しみ。
著者は編集者を辞めてからしばらく隠居していたそうだが、上のメッセージはその生活の中で感じたことらしい。
またこうも述べている。
ある研究によると、人の自由時間は1日7時間以上あると、逆に幸福度が下がってしまうそうである。身にしみて、本当にそうだと思う。時間のゆとりと、したいことができる自由は幸せの条件だと思う。しかし、それに浸りきることもまた、幸せではないのだ。
自由に浸ることは幸せではないのだろうか。
私にはまだ想像できない。
もし私が自由を手に入れたとしたら、好きなだけ本を読み、好きなだけ旅行に行き、好きなだけ美味い物を食べるだろう。
想像するだけで楽しくなる。
しかし、自由に浸り切ることは幸せでは無いらしい。
なぜだろう。
人が幸せになるには一定のストレスや不自由は必要なのか。
- テストが終わったら遊びに行く。
- 仕事が終わったらビールを飲む。
- ランニングをしたら温泉に入る。
もしかしたら人が幸せを感じるには、不自由と自由はセットでないといけないのかもしれない。
だとすれば、不自由を完全に避けることは、自らの幸福から遠ざかっていることに他ならない。
「働くということ」(黒井千次著)では、以下のメッセージが書かれている。
人間の自由は不自由を避けたところに生じるのではなく
不自由の真っ只中をくぐり抜けその向こう側に突き抜けた時
はじめて手にすることができるということ
そうだとすれば自由を掴む可能性があるのは
目覚まし時計に叩き起こされ 朝食をとりながらネクタイを締め 満員電車に詰め込まれて職場に出勤する人々に他ならない
彼らには不自由の塊である労働を通じで自己を表現し自己実現をはかる機会があるのだから
どうやら自由というのは労働の先にあるものらしい。
ぼくたちは習慣で、できている。 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2018/6/14